HOME > 伯壬旭軍帥の紹介 > 動画・目次 > 伯壬旭師御講演・全文 > 伯壬旭師御講演・全文(Part1)
(司会)
本日はご来場いただきまして誠にありがとうございます。只今より、『Z(ザイン)軍國の祭典──小島露観御講演会&アライド・フラクタルの集い』を開始いたします。
御講演会を開始いたします。ここで、小島露観師のプロフィールをご紹介いたします。
小島露観師は、1940年、昭和15年、東京にお生まれになり、東京大学土木工学科をご卒業、その後、現代社会を潰す、世界を革命する、ことを天命とされ、以来、世界のあるべき姿を求めて研究生活にお入りになります。あらゆる学問を渉猟された末、チベット密教に基礎を置く神智学に至り、それを超克する学問として「神文学(シンモンガク)」を打ち立てられました。現在、その成果を元に株式会社ザイン、シオンを設立。核石、オペレーションをはじめとする各種魔術商品を開発販売するとともに、Z帝國の軍帥として、世界革命の核、次代のリーダーとなる人材の育成に取り組まれていらっしゃいます。御著書に『セブン・レイズ・サイコロジー』、『Z・天宮図』、『神文学断章』、『沈黙の兵士たちへ』、『日本の未来を読む』、『戦争と平和の神—古代イスラエルと日本民族の秘密』、同じく『戦争と平和の神—大日本帝国滅亡に隠された秘密目的』等がございます。
それではこれより、小島露観師の御講演となります。どうぞ皆様、拍手でお迎えください。
(拍手)
1927年──国民党による「南京事件」
あらかじめ予告しましたのは、最初に古代のことをちょっとしゃべるという予告をつけ加えてありますけれども、時間の関係上、無理だなと判断しまして、
20世紀からの日本、特に日本のいわゆる「軍国主義」と言われているものですね、それの中心テーマとして、戦後断罪され続けてきた「南京事件」ですね。「南京大虐殺」とかいう言葉になっていますけれども、南京事件、それを中心としてお話をしたい。
南京事件と、英語でいうとインシデントになります。Nanjing Incident。南京事件というと、今は1937年──昭和12年ですね──12月に日本軍が国民政府の首都である南京を攻略した、その後で起こった虐殺──起こったとされる虐殺──を「南京事件」ということになっているんですが、実際には、元々日本人は「南京事件」といった時に何を考えたかというと、それを遡る10年前ですね、1927年、昭和2年のことですね、その時に起こった事件を南京事件として、日本人は考えてきた。少なくとも戦前はそうだった。
それはどういう事件かと言いますと、1927年3月24日に、南京に、もう既に中国は辛亥革命(※1)が
'12年(編註:実際には辛亥革命は11年でした。) で、その後目茶目茶になっていますから、国民党は興ったり、それから共産主義も興ってきている頃ですね。ちょうど興ってきている頃だと思います。そのね、そういう大混乱し始めていた中国が、当時の南京にあった、南京に居たですね、外国人を襲った事件があるんですね。
元々中国はいろんな外国に所轄権とられたり、ある意味侵されていたわけですが、その直接的な発端というのは、1900年の「北清事変」(※2)という、要するにあれですね、「義和拳匪(ギワケンピ)の乱」。それで北京に居た数ヶ国の外国人が攻撃を受けて、そこで日本軍が中心となってその暴徒を制圧したんです。その時から日本、外国というのはもう中国大陸に入って、その前からもちろんイギリスなんかは入っていますけれども、いろんな国が入ったのは、それをきっかけとしている。
そのね、それがしばらく経って1927年、だから南京に当時──上海にももちろんいましたけれども──南京にいろんな外国(人)がいたわけです。で、その居留民の地域があるし。そこにね、中国の国民党──まあ蒋介石(※3)の軍ですけど──の軍が、暴徒ですね、まぁ軍というよりは暴徒が、そこの外国人の領事館とか、あるいは居留民の生活地域というのを襲った。その時に、その南京っていうのは揚子江のすぐ横にありますから、欧米の艦船は発砲して応戦したんですね。艦上から艦砲を撃った。
その時に日本はちょうどいわゆる幣原(シデハラ)外交といわれている、幣原喜重郎(※4)という有名な外交官がいますね、1924年から
'31年まで、ちょっと中断が一ヶ所ありますけれども、大体日本の外務関係の仕事を裁量した。この幣原外交といわれているのが、日本軍からは非常に、まぁ国民からもそうですけれども、軟弱外交といわれて、糾弾されてたんですね。ただし、平和主義者からは、幣原喜重郎というのは評価は高かったという、非常に、その評価が分かれている人ですけれども、たまたまその時は幣原喜重郎が外務大臣で、何も抗議しなかった。
で、抗議しない以前にですね、その幣原外交を受けて、日本はその、自重するようにと。当時南京にいたのは、海軍陸戦隊の駆逐艦が1隻いたはずなんですね。で、それで応戦するなと、自重しろという打電をした。ために、駆逐艦にいた荒木大尉以下12人の兵士は、侵入してきた暴徒に対して、刀も、銃も撃つことができなかった。
で、彼らが何にも結局、武装解除されてしまって、後は暴徒のやりたい放題で、時の南京の総領事をしていたのは森岡正平という人物ですけれども、森岡正平はちょうどその、病に臥せっていたときに暴徒が入ってきて、森岡夫人が裸にされて、その夫森岡正平の前で27人に輪姦されたということまで起こっているわけで。その、夫人だけじゃなくて、そこの辺にいた日本人が殆ど全部強姦されている。それを荒木大尉以下は切歯扼腕しながら、軍の命令を守って、抵抗できなかった。こういう事件がある。
これを我々ははじめ、日本人は南京事件と考えた。で、この時荒木大尉がその憤怒のあまり、後で怒りで腹をかき切って—責任を取ったんじゃないですね、抗議ですね──そういう事件があった。ただしこの後で幣原は何も抗議をしていない、国民政府に。それが1927年の3月24日。
張作霖爆殺事件(1928年)
それから1928年、昭和3年になってくると、いわゆる張作霖(※5)爆殺事件が起こる。
満州を支配していた軍閥の張作霖。これを当時満州にいた関東軍──関東軍というのは、ご存知だと申しますけれども、別に関東地方の関東ではなくて、山海関という中国の北京の北のところに山海関という、これが満州といわゆる中華帝国の間の境目で、万里の長城がその間にずーっと建っているわけですけれども。その一番の海岸沿いのところに、山・海・関、関所ですね、この関所の向こうは化外の地、要するに文化の行き届かない地として関東といわれた。関東軍というのは、だから要するに満州軍、満州駐在軍のこと。で、日本も関東軍という名前を使っていて、その関東軍の中に河本大作(※6)という大佐がいた。この河本大作が張作霖爆殺を企てた。
で、成功したんですね。で、これが大問題にもちろんなりましてね、これは完全に河本大佐が仕掛けたもので、で、この河本が当然日本に呼び返されて服役した。取調べを受けて、その時の関東軍司令官というのは罷免になった。
今日の主題になる南京大虐殺という汚名を着せられてA級戦犯として1948年、昭和23年に東條らとともに処刑された松井石根(イワネ)(※7)大将がこの時に、、その陸軍参謀本部の第二部長という重職にあって、で、河本に対する咎め立てが弱いというので辞職しているという。軍紀が乱れると、そんなことを──許してはいなかったのですけれど、比較的軽い処分で済んだんですね、済ませたと、当時の陸軍参謀本部は。それに対して抗議して、第二部長の松井石根、その時は大将じゃないと思いますけれども、松井石根将軍が辞職したと。で、軍紀厳正をモットーとする将軍なんですね。松井石根というのは、石の根と書きます。石の根っこ。この時最後に問題になる南京大虐殺の時には大将でした。で、全体の総帥、総司令官であった。
それでね、大体その南京事件に至るまでの推移をある程度しゃべっていかないと分かりにくいと思うんで今しゃべってる。それから1928年に起こった、6月4日だと思いますが、今の張作霖爆殺。
柳条湖事件(1931年)
それからね、その時はまだ直接的に日中の衝突まで至っていないんですね。で、その張作霖の息子の張学良(※8)──
学んで、良しと書く──、張学良が今度は満州の軍閥の長になった。張学良がどんどん勢力を増しましてね、人数的には親父の代と同じ20万から25万の兵。ただ装備を充実させて、近代装備も結構充実させてきたという。で、当時満州にいた関東軍は1万名足らず。だから20倍から30倍ぐらいの兵数を持っていて、非常に嫌がらせをやり始めたわけですね。で、その、満州には、ご存知のように、日本人居留民があちこちに散らばっているんで、元々関東軍というのは、その居留民を守る、それから満鉄ですね、南満州鉄道を守るのが役割だった。ただ、だから1万名弱しか当時いなかった。それが25万ぐらいの張学良の例の挑発を受けて、何度も何度もそのほか事件が起こってくる。
張学良は満州だけれども、本土の蒋介石の国民政府とだんだんいい関係になってくる。だから一体化してくるわけですね。国民党みたいな形になってくる。国民党はとにかく排外主義ですから、日本だけじゃないですけれども、外国の勢力を駆逐しろ、という動きがあった。それに張学良も感応していく。
そういう中で小競り合いとかその、暗殺、日本の将校の暗殺事件とか──中村大尉という将校が殺されるという──起こってきて、1931年に、終に「柳条湖事件」と、柳の条(スジ)、一条、二条の柳条湖、湖ですけれども、満州、奉天の近くにある地名ですが、そこで線路の爆発事件が起こったんですね。
これは日本軍が仕掛けたんだろうと当然言われたんだけども、非常に複雑なんですね。この時に関東軍にいた総司令官は本庄繁(※9)。その下に参謀がいるわけですが、この参謀の中に板垣征四郎、これは大佐ですよね、それから中佐として、天才と謳われた石原莞爾(※10)、これがいた。これは非常に複雑ですね、9月18日(に起る)柳条湖事件。
で、とにかく張学良の圧力が非常に強くなってるんで、関東軍、非常に苦慮していた。だから何か向こうが仕掛けてきたらやろうということは、石原参謀、石原中佐中心に、想を練っていた。石原莞爾という、これは陸士、陸大のとんでもない秀才で、しかもものすごい独創的な頭脳を持った、また、剛直な人物でもあって、私は少年時代から日本の将軍というともう石原しか思い浮かばなかったほど好きな人物。この石原がほとんど策を練っていて──この時にたまたま日本軍は石原が策を練って、奉天の飛行場が、張学良の飛行場がある、あれを潰したいと。
日本軍にはその時飛行機1機もないんですね。関東軍って本当に、人数も少ないし、装備も本当に悪い軍隊だった。で、張学良の軍というのは、飛行機も買い入れて、数機持っていたという。
で、あの、奉天飛行場を潰したいと。で、9月18日にそれを潰そうとしていたんですね。だから飛行場を潰すことが目的です。その時にたまたま、柳条湖の場所で、線路が爆破されたんですね。で、これが全く同じ日に起こってしまったんで、これが全部関東軍、石原の策謀だとずーっと思われていたんだけれども、実際は本当に符合しちゃったという、この爆発したのは結局、学良の軍隊になるわけですね。だから、事を、自分のとこで爆破して、日本軍がやったように見せかけて、日本軍を、関東軍を潰しちゃおうという、学良のそういう作戦だったんだと思うんですが、たまたまこちらも同じ日に奉天飛行場を破壊しようと考えた。そういう不思議な符号があった。ただしこの時から日本は完全に中国、対中戦争に入っていくわけです。
熱河作戦〜関内作戦(1933年)
それで結局満州のこのあと、(編註:地図を指されて)これが満州。奉天がこの辺にある。で、日本軍は大体このあたりを根拠地としているわけですけども、ここから遡って、「熱河作戦」(※11)──熱河省というのがある。何で熱河というのかよく分からないんですが、結構北京よりも北の、上のほうですから、温泉でも──寒い地域です。ものすごい寒い地域です。ただし熱河という、熱河省というのがあって、「熱河作戦」という。
これを石原主導で展開していって、ここに万里の長城があります。この万里の長城を陥れて、日本軍がこちらまで入ったんです。で、ここら辺に北京がある。で、この辺にあの山海関という有名な関所がある。で、山海関の内ということで北京からこの辺のあたりの一帯ですね、これを「関内」という地名で呼んでいる。だから「関内作戦」という。
これは熱河作戦が成功して、この時はね、もうほんと伝説的な日本軍の凄まじい驀進が記録に残ってます。十何名で敵二、三千名を追い散らしたという信じられないぐらいの武勇の話がいっぱい残っているのが熱河作戦。
で、この関所、万里の長城を越える時は結構苦労したんですね。で、ただしそれも陥して関内に入って、このまま進めば北京と。当時ね、南京はこのあたりですよね、これが揚子江とすると南京がこのあたりにある。これが上海ですね。で、南京政府というのがあって、これが蒋介石軍、これの首都だったわけで、国民政府ですね。国民政府。
北京には北京中心の冀察(キサツ)政府というのがある。これはまた、あれ(政府)が違うわけです。国民政府といったって一部しか掌握していないんで、冀察政権というのがあったわけで、これは日本と中国の合いの子みたいな、傀儡(カイライ)といえば傀儡だし、中国といえば中国みたいなね、政権。だから北京も都で、ここまで攻め落とすことができれば、ここを(落とすのも)、簡単だった。
ところが「奉勅命令」という、天皇がやめろというのが届いて、後ろに退く他なかったという。これは軍事的に見ると、この関内作戦で突っ走ってしまえば、日本は、非常に有利な状況になったと思うんですが、昭和天皇は平和主義者ですから、それ許さなかったということです。
第一次上海事変と満州国建国(1932年)
で、こういう状況にあって、その辺が、1931年9月18日に満州事変(※12)が勃発、柳条湖事件ですね。
で、このあとに、これに対する不満が当然中国に起こって、翌年の1932年の1月に第一次上海事変(※13)、これは満州、日本の満州作戦に対する抗議で起こった上海事変ということ、第一次ですね。それから同じ1932年3月1日に満州国が建国されるわけです。
この満州国というのは日本の傀儡政権であったことで有名になっていますけれども、実際満州政権の初めはね、満州帝国といわないで、「満州国」とただ。
で、溥儀(フギ)という、溥儀、中国流にいうとpuyiというらしいですが、溥儀というのはこれが清朝最後の皇帝ですね。で、辛亥革命、孫文の辛亥革命が起こって退位させられた。宣統帝という、4歳くらいで退位させられていると思うんですが。これが育って、皆さん、多分ご存知のことだと思いますが、あの、『ラスト・エンペラー』という映画。あれは溥儀の、少年溥儀の守り役ですね、家庭教師であるジョンストンというイギリス人だったと思いますが、この人が書いた本で、『紫禁城の黄昏』という本があります。私も読みましたけども。それをモデルに作ったのが『ラスト・エンペラー』。この本は、ジョンストンが途中で、溥儀が満州国と関係を持つ前に、国に帰っちゃいますから、後のことは書いていない。で溥儀は結局、満州国を何とかして──元々満州族出身ですから
──満州に帰って、地方政権としての満州でもいいから国をつくりたいという、そういう考え方だったんですね。
それで、当時溥儀は天津にいたんですが、この天津から日本人の使者を通して日本の陸軍大臣の南次郎(※14)という、当時陸軍大臣だったと思うんですね、この南次郎に親書をおこすわけですね。それで自分が満州に新しい国を興したいという、そういう文書を残す。初めはだから、初めから日本軍が満州を傀儡政権にしようと思ってやったんじゃなくて、溥儀の働きがあったんです。
で、この時天津ですから、天津というのは日本の特権区じゃないですから、そこにいたわけで。で、南次郎はこのあれ(親書)を受けて、日本が、じゃ、これは乗ろうじゃないかと、我々にも有利になるんじゃないかというんで決めたのが、半年くらいして、溥儀のところに、応諾──じゃ、そういうことでやりましょう──というのが行ってる。
だから満州国というのは元々は溥儀から出ているものであって、日本から出てない。それを初めから日本軍がもう、さも溥儀を担ぎ出したという形で報道された。歴史もそうなってるけども、実際は全く違う。