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東京裁判で証言する溥儀
で、これ「東京裁判」になりましたよね。満州国のことを調べるために溥儀も呼び出された。で、その時のね、溥儀の、その裁判の様子を書いた覚え書があるんですね。本に載ってる。それをちょっと読んでみます。
<参考文献:児島襄著『東京裁判(上)』(中公新著)他より>
○被告席には、皇帝溥儀の顔なじみが少なくない。板垣、土肥原両将軍は、彼を皇帝の位につけた演出者である。南次郎、梅津美治郎(ヨシジロウ)(※15)両将軍はともに関東軍司令官として、関係が深かった。星野直樹被告は、満州国総務長官である。その交友は久しく、かつ深い関係である。しかし、溥儀は被告席をちらっと一瞥しただけで視線を背けた。ややくたびれた紺の背広に焦茶色のネクタイを締めた溥儀は背は高く、黒ぶちの眼鏡をかけ、額は広く浅黒かった。乱れた髪、おびえたような目の色、白扇を閉じたり開いたりする落ち着きのない態度、往年の貴公子然とした若き皇帝をまぶたに描く者にとっては、おおよそ似ても似つかぬ風貌であり、態度であった。偽者ではないのか、被告席の中からさえ、そうつぶやく声が出たほどである。
そう書いてある。それで、キーナン主席検事(※16)、これはアメリカの首席検事で鬼検事といわれたんですが、板垣大佐、板垣というのは、満州事変を起こした時の参謀長ですね、板垣征四郎。
○「板垣大佐があなたに対して新満州国政権の領袖になることを申し出た時、あなたは承諾しましたか、あるいは承諾しませんでしたか」板垣参謀は関東軍司令官、本庄大将の命を受けて溥儀引き出し工作に従事したことは歴史的事実であるが、この時彼が強制的に引き出されたのか、自発的に自ら進んで首班になったのかは疑問の存するところであった。自分の希望するところであったと証言すれば日本の侵略性は著しく緩和されることになる。事実彼は喜んで執政になることを承諾しており、日本側はそう発言するものと期待していた。しかしソ連でまる1年洗脳され、日夜ソ連兵の監視に置かれ、現にソ連検事の睨み付けている法廷での彼の発言は、決してそのような甘いものではなかった。溥儀は西洋人がやるように肩をすぼめ、額にかかる髪をふって大仰な手振りでこう言った。「板垣は拒絶すれば断乎たる処置をとるといって脅迫したので、私はやむをえず屈伏したのであります。」溥儀は物の怪に憑かれたように口早にしゃべりだした。彼の陳述によれば、彼は満州国執政の地位に就いたのも、満州国の皇帝の位に就いたことも、二度の訪日を行ったことも、全て関東軍の強制によるものであって二度目の訪日に当たって三種の神器を授けられた時には、大なる屈辱を感じたというのである。彼によればこの屈辱をしのんで満州に数年の年月を送ったのは、いつの日にか、中華民国のためにこの失地を回復せんがため、その機会到来を待つためだというのである。彼は中国に呼び出され、漢奸(カンカン)の廉(カド)で処刑されることを最も恐れ、その予防線を張っての答弁である。
「漢奸」という、これは要するに国家を裏切る、中国という国家を裏切る内通者、これを「漢奸」という。これ、本当に殺されるわけです。
それで、それでしばらくあけて、
○元陸軍大臣南次郎被告の夫人、嘉久子さんが昭和6年9月1日付けで、溥儀から陸軍大臣南陸軍大将にあてて送られた宣統帝親書──先ほど申し上げたもの ──を木村兵太郎被告の弁護人である塩原時三郎氏に提供した。この親書の末尾には「今上御筆鄭孝胥(キンジョウゴヒツテイコウショ)」と──今上、今上陛下、これは溥儀のことですが、鄭孝胥という—満州国国務総理鄭孝胥──これは満州国の大臣で、総理大臣です──の、親筆確認の“裏書”まであった。
と。こういう絶対逃れられない証拠なんですね。その時にそれを、ブレイクニーというのは、これは日本側の、アメリカ人ですけども日本側についた弁護士です。
○ブレイクニーの激しい追及が続く。「あなたは板垣大佐と会われる前に日本の高官に対して復辟(これは皇帝に再度登ること)を受諾する意思のあることを書簡で伝えたと聞いていますが本当ですか」「そんなことはありません」「あなたはそのような書簡を書かなかったとはっきり言い切れますか」「はい、全然知りません」「そういう手紙について何も知らないというのですか、それとも書いた覚えはないという意味ですか」こうしたしつこいほどの押し問答の末、ブレイクニーは南夫人がもたらした宣統帝親書を証言台に坐っている溥儀に手渡して鋭くこう追及した。「その書簡には宣統帝の印がある。これはあなたが書いたものか、あるいはあなたの命令で書かせたものかおっしゃってください」皇帝溥儀は自分のかつての南陸軍大臣宛の親書を手にした途端、顔面蒼白となり、証言席に立ち上がると異様な声で喚く様に叫んだ。この時の模様を児島氏は『東京裁判』の中でこう描写している。<皇帝溥儀は悲鳴に似た叫び声をあげた。「お願いです……」「坐りなさい」と、ウェッブ裁判長が眼をむいて注意したが、騒然とする法廷も気づかぬように、皇帝溥儀は中腰になり、合掌の形に両手を合せて、叫んだ。「閣下、これは偽造です。いや、それだけでなく……」「質問に答えなさい。あなたはこの手紙を書いたのか書かなかったのか」「書きません。この手紙を偽造したものは処罰されるべきです」皇帝溥儀の容貌は、一変していた。インテリらしいひたいとほおにシワがきざまれ、眼鏡の奥の双眼は血走り、唇は小きざみにふるえた。24人の被告も、500人の席をうずめる傍聴人も、11人の判事も、法廷執行人バンミーター大尉も、被告席の背後に立つ憲兵も、いや、記者、カメラマンも、ブレイクニー少佐さえも、異様にとりみだした皇帝溥儀の姿にしばし眼をみはり、息をのんだ。>
これで、このまま溥儀の証言は「知らなかった」と受け入れられちゃうんですね。まぁ、どれほど東京裁判というものが、インチキな裁判であるかというのはだんだんと、ご説明しますけどね。先走って説明しますけれども、実際は、この溥儀が南次郎陸軍大臣に親書を渡したとこから始まってる、ということは記憶しておいてください。
南京事件に至る日本の状況(1932〜36年)
それからね、で、満州国が執政、溥儀を執政として建ち上がったのが1932年、昭和7年3月1日。この年には日本では5月15日に海軍軍縮会議に反対する暴徒によって犬養毅が暗殺されている。同じ年
'32年9月15日には「日満議定書」(※17)というものが取り交わされ、、日本と満州国との間のいろんな取り決めですね、これが調印された、ということですね。で、満州帝国になるのは2年後の3月1日、1934年3月1日。
その間に、日本が先ほど申し上げたとおり熱河省から関内に入ったあれと、冀察政権の間で、「塘沽(タンクー)協定」(※18)というのが結ばれた。で、ここは一応静かになったという、これが塘沽協定が
'33年の3月31日ですね。だから満州帝国になる前です。
この時に塘沽協定が結ばれた後に、日本の代表が、梅津美治郎(編註:ホワイトボードに「梅津安次郎」とありましたが、梅津美治郎に訂正いたしました)。当時、何ですかね、中将ぐらいだったですね。それから中国側、蒋介石側の代表が何応欽(カオウキン)。まぁ、軍人であり政治家であるという、これは後で出てきます。この人物。何応欽。で、「梅津・何応欽協定」(1935年6月)という形で、このあたりは収まってきたわけですね。
それから、日本で言うと1935年8月12日「相沢事件」というのがあった。相沢三郎中佐。日本は、皇道(コウトウ)派ですね、もう全く天皇中心。それから統制派と──やっぱり組織として、軍隊として普通の、まぁ西洋的な考え方も取り入れていくような形ですが──統制派と、この2つの流れが陸軍の間で戦っていて、この統制派の所に永田鉄山軍務局長というのがいた。陸軍の軍務の一番ヘッドですね。これが皇道派に属した真崎甚三郎という将軍を教育総監──
教育総監というのは軍隊における教育総監──真崎甚三郎を教育総監からおろしたことで怒った相沢三郎中佐が永田鉄山をバーン、暗殺したと。これが「相沢事件」。
そしてこの大体半年後、1936年に、1936年2月26日、「2・26(事件)」がこの後で起こっている、こういう時代に今我々の時代はあると。「南京(事件)」は1937年、翌年ですね、南京の虐殺云々事件。
西安事件(1936年)
それでね、1936年2月26日に「2・26(事件)」があって、同じ '36年に、中国では「西安事件」というのが起こる。12月12日。
これは中国大陸、ありましてね、中国は対日だけ、対外国だけでやってたわけじゃなくて、共産主義が生まれたわけです。当然。毛沢東(※19)の共産主義が生まれたわけで、この辺がはじめ瑞金という場所があって、ここからね、で、蒋介石は南京中心。で、これと戦って負けて、西遷という、大西遷という、西に大移動を、移動中に、あの軍隊10分の1以下になったという話がある。ここで、延安という、田舎のところに落ち着いた、逃げたんですね。逃げて、しかしまぁ蒋介石からいうと、毛沢東等は逃がしちゃったんですね。
それで、これをやっつけようというんで、軍隊を送っていたんだけれど、中々埒が明かないんですね。この時に、さっき言った、張学良──爆殺された親父、張作霖の息子──張学良がこの蒋介石の──これ国民党の総帥ですね──蒋介石の次席になるんですね、副総統、副司令官になるわけです。副総統という名前だったかはよく分かりません。とにかく次席になって、一体化していって、で、蒋介石はその延安攻めに張学良の軍隊を使ってる。
ところが全然埒が明かないんで、何やってるんだってんで、蒋介石が南京からこの延安に近い西安ですね、(昔の)長安。ここに飛行機で行った、この時に監禁された事件。張学良は実は共産主義政権ともう関係を持ってた。で、ちょうどこの、その名前の通り楊虎城(編註:ホワイトボードに「陽虎峰」とありましたが、楊虎城に訂正いたしました。)という人物がいて、これと張学良が関係を持ってて、その時に西安に入ってきたものだから学良が(蒋介石を)逮捕しちゃったわけですね。これが「西安事件」。
で、共産党の内部ではもう殺せというあれがあったらしいんだけども、スターリン、国際共産主義ですから、スターリンの支配下にあるので、スターリンから生かして使えと。で、国民党と共産党を合作しろと、合作というのは要するに合同しろと。国共合作(※20)という。これがスターリンの指示で、それを条件に蒋介石を解放してやれという形になってる。これ第二次で、第一次は1920年代にあります。
これから変わった。だからそれまでは、国民党の軍隊と共産主義っていうのは、共産党の毛沢東の軍隊というのは戦って、国民党の本当の敵は共産主義にあったんですけれども、この国共合作によって、共通の敵は日本だけになっちゃったんですね。これが1936年12月12日の西安事件。これをきっかけとして。そういう、だから今までは日本軍というのは本当に国民党、国民党軍だけを相手にしていたのが、今度はその中に共産軍が入ってくる。これからややこしくなってくるんですね。
盧溝橋事件(1937年7月7日)
で、この1936年12月12日を経て、1937年いよいよ南京事件が起こる年ですが、この時に、この1937年7月7日、七夕の日にいわゆる「盧溝橋事件」が起こるわけです。
これは北京に割合近い所にある盧溝橋という場所です。ここで、日本軍が、夜間演習をやっていたんですね。夜間演習をやってたら、弾が撃ち込まれたと。で、当時の日本軍というのは空鉄砲でやっていたんで、応戦できない。そしたら、よくこう、這いつくばって見てると、自分たちのところには弾飛んでくるけれども、そんなにびゅーびゅー飛んでくるわけじゃない、数発撃ち込まれた。
ところが、こう日本軍がありましてね、国民党軍が、こう、あったわけです。向こう、ちょっと向こう行くと国民党軍ェたむろしている場所なんです。国民党軍のほうにも何か弾の響きが、撃ち込まれている感じがある。これは実際、これが本当の日中戦争の始まりと、満州を経て、本当の本格的な日中戦争の始まりとされている日なんだけども。実際、これは何かというと、これは共産党の仕業なんです。で、共産党は何考えているかというと別に国民党と本当に仲がいいわけじゃなくて、国民党と日本軍を徹底的に戦わせて、自分は漁夫の利を得ようというのが共産党の戦略です。だから戦わせたいわけです。
だから当時の、後に国家主席になる劉少奇(※21)という人物がいて、この下の救国青年同盟みたいな、そんな名前、若干違ってますけど(編註:抗日救国学生隊)、そういうものの下部組織、学生ですね。これが劉少奇の命を受けて、両方の軍営に闇に乗じて、パンパンパン、パンパン。そこから、日中戦争が始まった。これはね、中共政権自体が認めています。そういう文献(※22)がある。だから盧溝橋事件を起こして日中戦争を本格化させたのは日本じゃないんですね。共産党、中国共産党の仕業です。
だから盧溝橋事件が起こった後はすぐね、ここにいた国民党軍と日本軍の間で、行き違いないように、この、軍使のやりとりをして、休戦にすぐなる。休戦協定が結んで、それならば何でもなかったはずなんだけども、その後どんどんどんどんいろんなことが結局収まらないんです。だから共産党が入ってますから、とにかく日本軍と国民党軍を戦わそうというあれで、どんどんどんどんその、いろんな、そういう工作をしていって、これが本格的な日中戦争に展開してくる。「支那事変」と、当時は言ってましたね。
「事変」という言葉、「戦争」という言葉は、戦争という言葉というのは、一応「宣戦布告」して初めて戦争になるんですね。宣戦布告なしの、この戦争というのは、戦争といわないんです、専門的には。事変と。これは何故そういうあれがあるのかというと、その、実際本当に本格的なその宣戦布告した戦争になると、第三国がそれに対して加担してくると、いわゆる国際法がいろいろあるわけ、めんどくさく、加担しちゃいけないとか何かあるわけ。で、非常にそうすると例えば日本軍でいうと、アメリカから物資が入ってこない、石油が入ってこないとかいうことが起こりうるんで、宣戦布告しない戦争をやるわけです。中国も同じで、外国から入ってこなくなるのを恐れて、そのまま宣戦布告をやってこない、何かなし崩しに起こっていくのが事変。それが1937年にある。
通州事件(1937年7月29日)
'37年7月7日に盧溝橋事件が起こった。それからどういう事件が、満州、南京事件まで勃発するか。
7月25日に、「郎坊(ロウボウ)事件」というのが起こる。これは北京よりちょっと南のところです。郎坊という場所があって、ここの通信線が切断されたために、日本軍の工兵がそれを直しに行くところを待ち受けられて、一斉射撃をあびたという事件です。
それから翌日の7月26日に、「広安門事件」というのがあった。広い、広い門(と書く)。広安門事件という。これはどういう事件かというと、北京市内の日本の居留民、非常に危ないですから、もう、とにかくものすごい、居留民が危なくなってきてるわけで、北京城の中に入って、日本の居留民を守るために、日本軍の一小隊か、ぐらい(編註:天津駐屯第二連隊第二大隊)ですかね、が、あらかじめ、これから我々はその広安門を通って、日本軍の居留民のところに行くという伝達をした上で行ったんですね。で、広安門に入って、半分位が入ったら、ここ閉じられちゃった。で、上の、あれから、周りからバーッと一斉射撃を浴びた。こちらも応戦したわけですけども、これが広安門事件。
それから、いよいよ問題の残ってくるのが、この3日後7月29日、「通州事件」(※23)という、これが起こる。これ通州というのは、山東半島、大体起こるのは、事件の大きなのが起こるのは北京よりちょっとこの辺にある、山東半島の付け根の辺りでよく起こるんですが、この通州という場所で、やはり国民党軍と日本軍──国民党軍が動いていて、まだ本格的な戦争になっていなかったわけです。これはね、一応、本格的な戦争にはまだなってない。ただ事件が起こってる—この時に国民党軍が通州を通って、通る際に、日本の居留民を襲った。で、メチャクチャな虐殺をしたんですね。居留民、通州の日本人居留民は350人ぐらい、そのうち260人ぐらいが殺された。その中で女性たちはもう全部強姦されて、惨殺されてる。性器の中には、丸太とか、棒とか、ほうきの柄とか、そういうものがぶちこんで──全員ぶちこんであったという──むごたらしい、あるいは乳房を切られる。メチャクチャな惨殺をされた。
これが日本の「支那人憎し」というものすごい大きなドライブをかけることになる。結局、この7月29日の通州事件というのが決定的な影響を持ってる。
第二次上海事変(1937年8月13日〜11月9日)
それで、終に日本軍が、これは絶対許せないというんで、上海に派遣する。で、8月13日、8月13日に、一度、第一次上海(事変)ありますけれども、満州帝国作った時にありましたけれども、そんな次元のものじゃない。「第二次上海事変」(※24)が発生。これは日本軍から、3師団送った。この時に、これの総司令官だったのが、さっき言った松井石根。大将。で、松井大将は、3師団では足りない、5師団くれと言ったんだけれども、日本の参謀本部はまだ不拡大方針で、非常に切れ味が悪かったんですね。だから軍国主義といっても非常に切れ味の悪い軍国主義ですよ。私が総司令官やったら、あんな切れ味の悪さは全くないですね。
で、この、だけど3師団。これはね、軍の逐次投与。これ、愚策なんですね。少しずつ出していく、これ愚策なんです。それをやっちゃったんです。
で、この時に、しかしまぁ上海を守る中国軍というのは、今までの満州であるとか熱河省だとか、あと関内作戦であったとき、本当に鎧袖一触ぐらい日本強かった。10倍の敵を鎧袖一触してますから。そのつもりだったが、大間違い。
上海を守る、上海といっても日本と違って、中国というのは上海「城」というのが、必ず城壁が全部あるわけです。どこでも、南京「城」、必ず城が、分厚い城壁に囲まれている。城壁といったって、日本の城みたいな、あんな、こんな薄いもんじゃありません。城壁の上が何メートルもあるくらい。万里の長城もそうでしょ。ああいうのが城壁になっている、全部が分厚い、こんな壁がざーっと並んでいる。
で、その上海を、攻略するのが8月13日に始まったけれども、意外に、中国兵が強いんですね。本当に頑張って、日本軍がびっくりした。確かに上海の時はものすごく強かった。で、上海のあたりというのは揚子江の本当に河口近くですから、もう、水、水理がいろいろとこう、入り混じっている。で、そういう、それからいろんな起伏を利用して、地の利を利用して戦って、日本軍が大苦戦するわけです。
それで、たまらず日本軍は増兵するんです。増兵して、そのあと、これは松井石根の、これ上海派遣軍というんですが。で、そのあとで、第10軍──まぁ、軍の組織というとね、師団単位で動く。
師団というのは日本の場合、師団というのは例えば、歩兵から砲兵から、それからいろいろ工兵もいたり、まぁ全て最近であれば例えば戦車隊もその中に入ると。いろいろ全部まかなえる。どんな戦いの形式でもまかなえるのが師団というもので、この師団が大体2個から3個の旅団、旅ですね。旅団(を擁している)。で、師団長というのは大体中将、ほとんど中将です。旅団長とい、のは少将。決まっている。で、師団がいくつか集まって──2個から5個、6個ぐらいですかね──これが軍というものになる。この軍というのは専門的な意味でのdivision。区分としての「軍」です。で、軍が、もう一つ例えば複数、軍があって、例えば10軍と11軍と、そういう形、あると、これが共同作戦やる時は「方面軍」となる。そういう専門的な意味があります。で、旅団の下にはこう、連隊という、連隊長というのは、これは大佐です。連隊というのは大佐。それから中隊、小隊、いわゆるplatoon。platoonというのは小隊。中隊というのはcompany、あるいはsquadron。連隊はregiment。旅団(brigade)は何といったかな、ちょっと覚えていない。師団はdivision。こういう、あります。
これでね、今の(話に)あった上海派遣軍、これはここの一つですね。これは松井大将の軍ですね。上海派遣軍。これに、中央が慌てて送ってきた第10軍という、これの総司令官が柳川平助。これは中将で、そのまま軍団長でした。軍の、長。柳川平助中将。これが、合同して上海を攻め落とすんです。
で、さすがに、これにはたまらず、非常に頑張った中国軍だったけれども、8月13日に始まって、11月9日、11月9日に上海陥落。ほとんど3ヶ月かかった。で、日本軍もここで1万数千死んで、傷病兵が5万ぐらい出た。ものすごい苦戦でした。中国軍も、もちろんもっと何倍も出してるわけですけども、それにしても非常に中国頑張ったので、これ(中国軍の)装備も非常に良かったらしいですね。ちょっと日本軍、初めの、初期の戦争の調子で行ったもんだから、びっくりしちゃった。へとへとになって、本当に大変な上海戦争だった。