中支那方面軍の編成──将軍たちの発言

 これで、上海戦というのはこれで終わるはずだった。ところが、新しい命令が出ちゃったんです。このまま南京に突っ走れという命令が中央から出た。これがね、非常にこの上海戦を血みどろで戦っていた将兵からするとね、大変な誤算なんですね。「ええっ」て感じなんです。意気軒昂で、「よーし、じゃあ次は南京だー!」って、そんな感じじゃないんです。波動を、意識を合わせてみると。「ええっ」という感じです。だけど命令が出れば仕方がない。まぁそういうあきらめというか、そういう感じです。
 で、その上海から南京まで何kmにあるか分かりませんけれども西にある南京の方に新しく上海派遣軍と第10軍を合わせて、「中支那方面軍」という、こういう、この軍を作るわけです。2つの軍で中支那方面軍という方面軍を作るわけです。これの総司令官に、そのまま上海派遣軍の松井大将が就きます。で、ここの後には中央から送られてきた朝香宮(アサカノミヤ)という、お公家将軍。朝香宮鳩彦(ヤスヒコ)という中将。これが、この松井大将の後釜に送られてきて、で、朝香宮がここに赴任した時には12月7日ということで、ほとんど朝香宮というのは上海派遣軍にそれこそ何にも関係ないようなところにいたので、実際はお飾りでしょうね。で、そういう形になってる。
 でね、この柳川平助という中将と松井大将というのは仲が悪かったと言われている。で、そういうね、何と言うかね、日本人の中の内部の、この思惑違いとか、仲の悪さとか、そういうものがね、どうも大虐殺を呼び込んだね、内的な原因になってると思ってる。そういう、評判を落としちゃった、何かね、日本軍全体の中に間隙があった、隙があった。
 で、松井大将という人はね、これは仁慈の人ですよ。何と言うか、非常に厳格な人ですね、軍規に対して非常に厳格な人ですけれども、同時に非常に慈悲深い人で、中国兵と中国の民というのを完全に峻別してるんですね。で、「民は労れ」という風な事をしょっちゅう教えている人で。このね、例えばその前に通州事件が起こって、しかも上海事変で七万人位の死者・ケガ人が出ているわけで、(日本軍兵士の間には)中国人に対する敵意がものすごいあったわけですね。その時に松井大将だけは非常に仁慈の人で、そういう私情を入れるな、という形で指導していったのだけれども、結局部下が収まらなかったという面はあるのですね。
 だから、本当の意味の虐殺が起こったわけではないんだけれども、そういう発言が、松井大将に対する発言がね、松井大将が余りに正統の武士道的な厳しく、しかも優しい事を教える。それに対して反発心がいろんな人から出ていたようですね。その中の代表が、その上海派遣軍の中にあった第16師団──師団本部は京都です。京都師団と言われる──第16師団の中のここの師団長が中島今朝吾という中将です。この人はね、いわゆる我々の学問(神文学)から言うと8光線(※25)が非常に強い人。でね、もうかったるくて仕様がないんですね、総大将の松井大将が。それでもう公然と批判するし、クソッ!というかたちでいろんな発言をするんですね。
 それで柳川中将もね、上海近くの杭州に上陸して上海戦を勝つんですけれども、杭州に上った時に柳川平助中将が「山川草木全て敵なり!」と言ったと。もう中国に上陸したと、山川草木に至るまで全て我々の敵であると、そういう発言をしたと。そういうものが拾い取られてゆくわけですよ。で、実際、柳川平助の第10軍というのは殆どそういう風な言われてる事件の中にもないんですね。ところが柳川平助はそういうことをしゃべった、というような話になる。それで全体の日本軍のあれがそういうふうな雰囲気だと。で、中島今朝吾というのは傍若無人の中将ですから、言いたい放題言ってる。「強姦して何が悪い!」とかね。実際強姦してるわけじゃないんだけども、そういう発言をしちゃうわけですよ。一つは松井大将に対する苛立ちがそういう発言をさせてるだけの話で。それから部下の中国軍に対する怒りを中島中将そのものが受け止めてそういう言葉にしている、そういう面もあるわけですね。我々の師団長がそういうことを言ってくれていると。ただし、中島今朝吾がそういうことを命令してるわきゃないんですね。ただ発言をしちゃう。
 だからね、この南京事件、それからもっと大きくいうと東京裁判。これはね、奇しくもね──かたちは小さいですけどね──我々のことを扱う報道関係に非常に似てますね。だから私が発言するでしょう。私が例えば1時間半発言したって、使うのは1分ですよ、せいぜい3分ないですね。同じ言葉を繰返すわけですよ。例えば柳川平助が何かしゃべったって、そこの部分だけがリピートされて聞かされるみたいなものですよ。「山川草木全て敵なり!」「山川草木全て敵なり!」、どこのチャンネル見ても柳川平助のそういう言葉が聞こえてくると、「柳川平助ってとんでもない、もう中国全体を抹殺しようとしているようなあれだ!」というかたちになるでしょう? だから部分(事実)と全体(真実)というのは違う! 一部分の事実だけを報道するというのは虚偽を報道しているのと全く同じだと。だから報道関係と非常に似ている。後で報道のことも時間があればしゃべりたいと思いますがね。
 それでね、そういう状況に軍隊があった。しかも悪いことに、松井大将は何か持病を持っちゃったんですね。一度引退して、それで今度の上海作戦でまた復役して動員された将軍なんですね。持病があって、上海から軍隊が南京に移動する時に蘇州で動けなくなっちゃってたんですね。で、ここが南京。だから南京攻めが始まったのが1937年12月10日です。これが総攻撃開始。陥落したのが12月13日。上海は3ヶ月だけども、南京は3日で落とした。そういう戦いだったんですね。
 ただこの総攻撃の時に、松井大将は蘇州で病に倒れていた、という弱点があるんですね。──まぁ、本当に運がないんでしょうな。運のなさも自らの不徳、と思うのでしょうけれども。そういう風に、だから実際、松井大将は城攻めの時にコントロールできなかった。そこでどういう状況になっているのか自分の目で見てないんですね。
 自分の目で見てないものを報道したのがこの南京事件をAtrocityとかRapeとかいうかたちで報道した世界的にいろんな人がいます。実際、ティンパーリという──イギリスのマンチェスター・ガーディアンの中国担当の記者ですけども、ティンパーリというのがいろんな本書く、いろんな打電する。ところがティンパーリは南京攻めの時上海にいたんですね。自分はいないにも関わらず打電するわけですよ。で、集める集める風聞というのは全部中国人から集めるわけですよ。或いは──後で言いますけれども──南京の中にいた南京安全区委員会(※26)という外人から集める。でね、結局、報道というものの責任というのにね、昔から日本人だけじゃなくて世界というのは非常にいい加減だったですね。(報道の問題は)後で言います。まず、とりあえず南京。
 それで、じゃ日本軍が南京へ次第に攻め上ってきたと。この時、初めは上海だけで終わる戦争を、急遽南京まで持っていっちゃったところにまた問題があった。食糧調達ができてないんですね。始めからそういう作戦じゃないから。そのまま突っ走れー!という命令ですから、現地調達する以外ない。そうすると全部現地調達じゃないけれど、現地調達を許すほかない部分があるわけだ。そうすると日本兵が途中のいろんな民家に入って「米よこせ」とか何かやっちゃうわけです。その辺からね、どうも南京攻略軍というのは評判が落ち始めたですね。初めのちゃんとした戦略ができてないことから起こってきてる。だから南京大虐殺というのは完全に作られたものではない。何かそれをね、そういうことを呼び込むものが日本の中にあったというのは事実ですね。よく調べてゆくとそう思います。

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蒋介石の南京脱出〜南京攻略戦(1937年12月10日〜13日)

 それでね、当時ですね、南京は国民党政府の首都です。それで情報を持った時に、11月16日に、総統の蒋介石は遷都発言をしてるんですね。重慶に遷都すると。もう支えきれないと分かってるわけです。重慶遷都、これを11月16日に発布しているわけです。じゃあ重慶に遷都するならもう都じゃないんだから、そんなに守らなくていいんじゃないかと言うんだけど、どうもすごい変なんですよ。
 それで、日本軍が段々段々と迫って来る12月7日、──憶えておいて下さい。総攻撃は10日に始まってるんだ──12月7日に、総統・蒋介石、それから奥さんで美人でしかもものすごい超のつく外交官・宋美齢(※27)、それから軍政部長──どういう役職かというと国防大臣──だったのが何応欽、「梅津・何応欽協定」(※28)というのがあって、元々軍人です。軍人といっても日本の(意味の)軍人じゃないんですね。元々は軍閥に所属していて、私兵みたいなものです。それから、参謀総長の白崇禧。蒋介石、夫人・宋美齢、国防大臣(軍政部長)・何応欽、参謀総長・白崇禧が、12月7日に南京を脱出してしまう、自分達だけ。
 後に残された軍隊を誰が組織するかというと、南京衛戍(エイジュ)司令官──衛戍っていうのは防御ということですが──に任命されたのが唐生智という軍人です。唐生智、これが衛戍将軍、国防・防衛将軍の司令官として「お前に託す」という形で蒋介石が「お前が守れ」と(託した)。当時の日本軍は8万人位じゃないですかね、南京には5万人位の中国兵しかいない。だから日本軍の方が優勢だった。その点では上海戦とはやっぱり違う。
 で、12月10日に(総攻撃が)始まるわけです。総攻撃が始まって、12月12日まではなんとか持ちこたえる。だけども、逃げる。結局もうここで城の ──南京城というのは揚子江があってここに南京の街があるわけです──この街の郊外に紫金山(シキンザン)という、これ激戦の地になる。あと雨花台(ウカダイ)という台地です。これが二大激戦地になるわけですけども、これの他にもいろいろとあって、南京の全部始めからいたわけじゃなくて衛戍軍、要するに国防軍、この南京の城の前に陣立てしてた。それを日本軍が攻めた。10日から始まって12日までなんとか持って、12日に崩壊し始めて、軍が城門の中に入って中に逃げ始め、突入を始めた。最終的には13日に陥落するんですけども、この時に──殆ど総敗退になった時に──南京衛戍司令官・唐生智は「後はお前達、自分達の部隊で各個撃破してやってこい」と一言残して12日の夜陰に乗じてこの南京城の揚子江から逃走しちゃう。一番守る責任がある総司令官が数人の幕僚を連れただけで逃走しちゃう。メチャクチャですよ。だから後に残った中国兵、もう本当に烏合の衆以下ですね。それで大混乱になってゆくわけですね。
 この唐生智というのは後どうなったかよく分からないのだけれども、銃殺されたという説が強いですね、流石に。しかしその前に蒋介石、自分が逃げてるんだから。始めから重慶に遷都するつもりなら絶対勝てるわけはないんだ。南京なんか放棄すればよかったんだから。
 だから、松井石根は蘇州からですけれども12月9日に、総攻撃の前日に、飛行機でばら撒かせているんですね、無血開城しろと。ところが応じなかったんだね、意地張って。それだから翌日の10日から総攻撃になった、ということですね。

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中国軍の清野作戦と便衣兵

 でね、南京虐殺のいろんなあれ(話)があるけれども。ここが南京城ですね、ここに湯山(トウザン)という──「山」というよりは土地と考える──ここからここまで15マイル、ある人が行って報告がありますけどね。湯山から南京に至るここ全部燃えてる。だから始めからね、日本軍と激突する前に中国軍は燃やしちゃうんだ。自分達の街というか郊外を燃やしちゃう。負けてそれを敵に奪られる、敵に使われるのは嫌だというんで。これをね「清野(セイヤ)作戦」、これ有名です。中国は昔からこれやる。自分で自分達の街や村を焼き払う、これ「清野作戦」。だからここの所全部何にも無い。何にも無いんですね、日本軍が行った時には。ただ燃えているだけで。
 結局、大混乱に陥って、12日に。それでもまだ落ちてはいない。その時にどういう事が城の中で起こっているかというと、全部こう、これから城に立て篭もってやろうというそういうあれ(戦意)はない。もちろん、総司令官は逃げちゃってるんだから。自分達も何とか逃げなきゃいかん、ということで、軍服を脱ぐんですね。軍服を脱いで街の市民の服をふんだくって、普通の市民の格好をするわけですよ。これを「便衣兵」というわけ。──便衣というのは普段着という意味ですね。これは戎衣(ジュウイ)に対応する。「戎」というのはこれは戦(イクサ)です。これは戦争の服—戎衣を着てなければ戦争はしちゃいけない、普段着を着て、これ要するに「便衣兵」、この便衣兵になっちゃったんですよ。で、それが南京の中の南京安全区国際委員会──これは全部外国人が40人で、 15人が差配している。係がいる。──外国人ばっかりです。で、南京の街っていうのはこんななってるんですかね。で、この辺の所に安全区を作った、勝手に作ったわけですよ、この国際委員会、外国人ですが。で、これは安全区だと勝手に宣言した。日本は認めなかったんですよ。上海の時には認めた。ところがなぜ今度は南京の時は認めなかったかというと、これはもうどこからでも入れる、単に自分たちが勝手に作ったものですから、境界もないわけですよ。で、この安全区と称しているものの中に軍人とか政府高官とかの住宅まであるわけですから、これ日本軍から言ったらここは安全とはとても思えない。ただし、ここ攻撃しなかった。この安全区の中に、南京が全部パニックになって、全部この中に入っちゃった。後から(南京城に)入って見ると誰もいない。どこの軍隊も殆どそういう報告ばっかり。
 で、(中国軍の)兵士も市民に化けて入っちゃった。これ便衣兵。いわゆるゲリラですよ。「ジュネーブ条約」──戦争法が規定してあるのが「ジュネーブ条約」です──この中で、戦闘員というのはちゃんとした軍装をしなければならない、と規定してあるのです。普通の市民の格好をして戦争をしてはならないと規定してある、戦争条約で。なぜかというと、普通の市民の格好をしたら、普通の市民がそのゲリラと間違えられて射殺される可能性が充分ありますから、そのことを防ぐ為に、「市民の服装をした者は武器をとって戦ってはならない」というのがジュネーブ条約の中にあるわけですね。もしも便衣兵—ジュネーブ条約の中に「便衣兵」という言葉は使ってませんけれども—要するに便衣兵が、ゲリラ兵が認められたら、もう即射殺していい、というのがジュネーブ条約で決まってる。一瞬でも躊躇ったら殺されるから。この便衣兵が5〜6千、市民の中に混じってこの安全区の中に逃げ込んじゃった。これがね、大虐殺の──大虐殺と言われているものの──一つの原因になってる。
 だから当然、実際に攻略して中に入ってみたら、他はガラーンとした人っ子一人いないような、猫一匹いないような、そんな街になってて、ここだけがもう人で膨れ上がっているわけ。でこの中に銃を持った者が逃げ込んでいるのですから、それを市民と本当は兵士である「便衣兵」を識別することを日本軍はやらなきゃならない。
 で、入城してからすぐやり始めたんです。で、見つけたものは、初め──いろんな記録があるんですが──ある部隊は2000人ぐらい見つけて、全員射殺したと言っています。この辺が大虐殺の中に取り上げられてきちゃう。ところが便衣兵を射殺するということは、これは国際法に違反していない。全く違反していない。正当な行為。ただし、全部の捕虜を殺したわけじゃなくて、ある部隊は便衣兵を武装解除して放逐しているという、そちらの方がはるかに記録が多いんですが。ただ、2000名ぐらいの便衣兵を摘出して射殺したということは書いてあるんですね。その辺が敵さんに利用された、ということです。

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